リレーエッセイ Vol.7



社会人大学院生になった理由-実務と研究とのはざまで-

人文社会科学研究科博士前期課程2017年修了 中野 貴元




 私は現在公益社団法人全国経理教育協会と一般財団法人総合福祉研究会という団体で双方の事務局次長という職にあります。全国経理教育協会は昭和31年の創設以来、簿記や税法を中心とした検定試験、特に2020年からは民間初の中小企業庁後援資格となった中小企業BANTO認定試験を主催しており、一方で総合福祉研究会は社会福祉法人に携わる公認会計士・税理士を会員として社会福祉会計簿記認定試験を主催する団体であり、いずれも共通するのは簿記・会計を中心とした資格試験を実施する団体ということです。

 今を去ること6年前の2015年4月、当時勤めていた新富町の職場から徒歩30分の東京駅日本橋口にそびえ立つサピアタワーを、これからの大学院生生活への不安と期待の眼差しで仰ぎ観ておりました。埼玉大学と私との関係は社会人大学院生として入学したこの時からのことですが、その始まりは大学卒業まで遡らなければなりません。

 2004年3月に私は福島大学経済学部を卒業しました。当時は就職氷河期の中にあり、私は大学3年の12月から就職活動を始め、エントリーサイトを通じて100社近く応募しましたがことごとく落ち続けました。最終面接まで進むことができた準大手の生命保険会社は、全国50人の採用枠に対して東京と大阪で開かれた会社説明会に1000人以上が集まり、最初のグループ面接から最終の役員面接まで7回宮城の実家から東京本社に呼び出された挙句に不合格でした。
 就職活動を行っていた2003年~2004年は「失われた10年」の出口に差し掛かりIT企業を中心としてベンチャー企業が次々に立ち上がっていた時代でした。私たちは親世代が平成不況の中でリストラの波にのまれていく姿を見て育った世代で、就職活動中に出会った中で「いつか自分で起業する」と口にする首都圏の同世代が多いことに田舎から出てきた私は驚きました。とにもかくにも色々な会社を受け続け、軽作業請負業のグッドウィルと介護事業のコムスンを中心とする事業会社を傘下に置くグッドウィル・グループ株式会社に入社することとなります。
 新卒で就職したグッドウィル・グループもそんなベンチャー企業の象徴のような会社で、入社時には完成したばかりの六本木ヒルズの35階に本社を構えていました。この会社の代表は1990年代後半に「ジュリアナ東京」「六本木ベルファーレ」を立ち上げて時代の寵児となった折口雅博さんで、最近はアメリカでのビジネスを成功させて日本に帰ってこられたことがニュースにもなりました。
 高校・大学を通して簿記・会計の勉強しかしてこなかったので、経理部門以外で自分が働けるとは考えていませんでした。グッドウィル・グループは職種別採用を行っていて、最終面接でもCFOの金崎明さんに「経理で働きたいです!」と言って採用されたのですが、配属先は経理課ではなく財務課でした。その理由は「経理は3年前に新入社員を採っているから」という理由でした。
 配属先の財務課は資金調達・出納・口座管理・支店経理のチームに分かれていて、私は資金調達チームに配属されました。財務課長の片桐孝一さん(現フェニックスリゾート社長)をリーダーとする資金調達チームの仕事は主に銀行対応だったのですが、片桐さんが取引銀行の担当者と駆け引きを行いながら有利な条件での資金調達を引き出す姿に憧れを感じました。
 その頃は今盛んに言われているワークライフバランスという考えはまだまだ希薄で、配属初日から残業、その週末には終電帰り、その月末には徹夜業務を経験することになりました。入社早々1件何十億~何百億単位の資金調達実務の一端を任され、中期資金計画や大型プロジェクトの資金シミュレーションシートを作成するという、とにかく目の回るような新入社員時代でした。
 グッドウィル・グループは上場企業だったので、四半期決算ごとに開示書類を公開しなければなりませんでした。私は大学で財務会計のゼミにいたということで、決算の時期は決算開示書類を作成するチームを手伝うよう命じられました。そこで通常時は財務の仕事を、決算終盤には決算開示書類の仕事を担当するようになりました。
 私はグッドウィル・グループを2007年10月に退職しました。コムスン・グッドウィル事件が起こった渦中で、折口さんがTVで涙ながらに謝罪をする姿が全国ニュースとなり、田舎の父が心配して珍しく電話をしてきたことを覚えています。その後機械系商社のイーグローバレッジ、組込みソフトウェアのユビキタス、システムインテグレーターのエヌジェーケーと転職を重ねました。それぞれの会社で財務・経理・開示等といった財経マンとしての通常業務のほかに上場準備・合併・買収等の特殊業務を経験する機会に恵まれました。そしてそれ以上に、それぞれの会社でプロフェッショナルの方々から実地で財務経理実務を学べる機会に恵まれ、さらに現在も交流が続いているのはかけがえのない財産となっています。

 さて、私が財経マンのキャリアと並行して行っていたのが簿記会計に関する研究です。
 大学卒業と同時に福島大学で指導教官だった村田英治先生(現日本大学教授)から日本簿記学会に推薦して頂き入会が認められました。入会した直後、学生時代からご指導を頂いていた高崎商科大学の成川正晃先生(現東京経済大学教授)から、学会が取り組んでいるプロジェクト研究会である平成16年・17年度簿記教育研究部会「工業簿記の勘定科目に関する研究」の委員に推薦して頂きました。研究部会は部会長で専修大学教授の渋谷武夫先生を始めとして、委員は学界・教育界・実務界でのベテランの先生方が名を連ね、先生方の熱い討論に社会人1年目でしかない私はただ呆然とするのみでした。この時、一橋大学の大学院生として研究部会の補佐をしていたのが、後に埼玉大学でご指導を頂く吉田智也先生(現中央大学准教授)です。
 その後に平成20年度・21年度簿記教育研究部会「『教養としての』簿記に関する研究」でも委員に推薦されました。この研究部会は中央大学教授の上野清貴先生を部会長として、簿記が企業だけではなく国民の経済生活にも役立つ手法の研究を行うとの話でした。私はこの中でわが国の簿記教育の歴史を調査研究する担当として、昭和初期の小・中学生や戦後の中学生に対して行われた簿記教育の内容を調査研究に携わりました。
 この研究部会で忘れられないのは1年目の中間報告会です。委員がそれぞれの中間報告論文を発表するのですが、まったく新しい試みなので研究者の委員もさることながら、教育者や私のような実務家の委員は書き慣れない論文作成に四苦八苦し、報告会は深夜まで続きました。私も指示されていた文量をどうしても短くできず1ページ多く報告したところ、普段温厚な上野先生から「完成原稿を準備しろと言ったやろ!」と厳しく叱責されて震えあがりました。
 この研究部会は何人かの脱落者を出しながらも、学会での最終報告後にブラッシュアップを重ねて2012年5月に『簿記のススメ―人生を豊かにする知識―』(創成社刊)という本となり、翌年に日本簿記学会の学会賞を受賞します。研究会は『簿記のススメ』の書籍化で終わるはずでしたが、上野先生を始めこのまま終わるのはもったいないということで、学会のオフィシャルな研究会から上野先生を中心とするプライベートな研究会に形を変えてメンバーの出入りがありつつ現在も続いています。この研究会の中で書籍が6冊発刊されて私自身もすべての執筆に携わり、2020年2月についに第100回目を迎えています。

   簿記教育研究会を重ねていく中で、上野先生からたびたび「中野さんは大学院に行かなあかん」と言われました。学界は研究業績も学位や大学で教鞭を執っているかで判断される面も多く、財経マンでありながら研究活動を行う変わり者に対する上野先生の暖かい親心から発せられた言葉でした。とはいえ、私としても今の仕事を辞めてまで研究で身を立てられる自信はまったくありませんでした。まして会社に勤めながら大学院の授業に通い、修士論文や博士論文を年限までに書き上げるのは時間もお金もかかります。とても自分には無理だと断り続けていました。
 そんなある日、埼玉大学大学院の入試要項が家に届きました。福島大学から埼玉大学へと籍を移された吉田先生が送って下さったのです。吉田先生に連絡を取ると「研究計画は大学の卒論の内容を発展させればいい」「入試は面接だけで筆記はない」「そもそも社会人向け大学院だから授業は就業後か土曜日しかない」…ついに埼玉大学を受験することになりました。研究計画書や願書を急いで作成し、受験料を振り込み…間もなく受験票が送られてきて、受験当日を迎えました。
 2015年2月28日の受験当日は良く晴れた日でした。横浜の家を出て北浦和の駅から、バスに乗り換え埼大通りを揺られながら「なんて遠いのだろう…」と思いつつ大久保キャンパスに降り立ちました。
 私の研究テーマは「戦前期における我が国会計基準の研究と再評価」という題名だったのですが、そこで面接官の先生から言われたのは「昔の会計基準を研究する意義が理解できない」でした。「グローバルに会計基準が統一化される潮流の中で、改めて過去の会計基準を歴史的に再検証する意義があると思う」と反論を試みましたが、面接官の先生にその言葉が響いているようには見えず、面接が終わった時に「あぁ、落ちたな」と確信しました。受験料と時間は無駄になったけれど、むしろ「これでいつもの日常に戻れる」とどこかホッとしていました。
 受験の日から2週間後に埼玉大学から分厚い封筒が届き、中には合格証と入学手続き関係の書類がどっさりと入っていました。さっそく吉田先生に電話すると「研究テーマはゼロベースで考え直してもらう」と言われました。さていったい何を研究テーマにしようか…と悩んでいた時に日本簿記学会の役員をされている先生から電話を頂きました。「今年の全国大会の統一論題のテーマが「明治期における洋式簿記の導入」に決まったのだが、そこで理事会は統一論題の報告者の一人として君を指名することになった。報告するかどうかここで返事を聞かせてもらいたい」と言われました。どうやら『簿記のススメ』で明治期の簿記教育の章を書いた先生と自分とが取り違えられて白羽の矢が立ったようでした。一旦相談する時間を頂く赦しを得て急いで吉田先生に電話すると、先生は少し悩まれた後に「統一論題報告を引き受けて、それを発展させて修士論文のテーマにしてはどうか」というアドバイスを頂きました。
 そこで1年目は日本簿記学会の全国大会統一論題報告準備とその後の学会提出論文作成を、2年目はそれを発展させて修士論文を作成するというスケジュールが決まり、明治期の簿記教育がどのような発展を遂げたのかを研究することとなりました。仕事をしながら地道に研究を重ねて2015年8月に開催された第31回日本簿記学会全国大会において「明治期殖産興業政策の時代と簿記教育」と題して報告を行いました。この報告を基に作成した論文が査読を経て『日本簿記学会年報』に掲載され、日本簿記学会の奨励賞と埼玉大学から学生表彰を頂きました。そして学会に提出した論文の内容をさらに発展させて「わが国における簿記教科書の歴史に関する研究」として修士論文を提出し、2017年3月22日の修了式をもって2年間の社会人学生生活を終えました。

 大学院の2年間は仕事を終えて疲れた頭で学校に向かい、18時半から21時40分まで授業やゼミに参加し、家に帰ってからは予習復習や修士論文の準備をしていると気が付くと明け方…という日の連続で決して楽な日々ではありませんでした。
 そしてそんな苦しい時に自分の脳裏をよぎったのは新卒の就職活動中にある個人投資家の人と話をしていて「お前はどんな社会人を目指すのか?」と聞かれたときに「会計の実務と研究について双方を識るプロフェッショナルになる」と答えた言葉でした。17年前のあの時に言った言葉を埼玉大学での社会人院生の経験を経て、今もその道に向かって歩み続けることができています。
 学生の皆さん、特に社会人院生の皆さんは学生生活の中で幾度となく挫折しそうな経験をされるかもしれませんが、その時は「自分は何のために学生になったのか」を思い返してみて苦しくも楽しい生活をエンジョイして頂きたいと思うのです。


<埼玉大学学生表彰 吉田智也先生と>


<簿記教育研究会100回記念パーティー>


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