リレーエッセイ Vol.1



50年前の埼大生と霞が関

経済学部1981年卒 舘 逸志



 皆さん、経和会はどんな人達が運営しているか知っていますか。今回、ホームページの刷新に併せて、どんな情報を発信していくかアイデアを出し合いました。私は、経和会の執行部や理事のリレーエッセイを載せて、メンバー紹介をすることを提案しました。このアイデアが採用され、では、第一回は言い出しっぺということで私が書かせて頂くことになりました。

 私は生粋の浦和っ子です。昭和34年3月に浦和の中央病院(現さいたま社会保険病院)で生まれ、元町の梅若幼稚園、本太小・中、浦和高校を卒業して77年4月に埼玉大学経済学部経済学科に入学しました。そう半世紀前ですね。

 その頃の埼玉大学は既に現在地にありましたが、当時は埼京線がなく北浦和駅から埼大通りをバスで大宮バイパスの大渋滞する交差点を超えて時間帯によっては小1時間近くもかかりました。今のように緑も育っておらず、団地のような鉄筋校舎が南北に並ぶ殺風景なキャンパスでした。埼大通りの周りはまだまだ田んぼも広がり、店舗も殆どなく、学生時代の飲食はほぼ100%生協でした。私の毎日の昼食は、豚の生姜焼き定食か魚のフライ定食(A定食、B定食、それぞれ300円台、200円台)だったと思います。

 自宅は現住所でもある浦和市駒場だったので、私は4年間自転車通学でした。自宅からキャンパスまでは約6キロ、30分程度の時間が掛かりましたから、雨の日は自然休講にしていました。当時の経済学部の講義はほとんど出欠も取られず、基本的にはマルクス経済学中心でしたからザクッと言えば社会思想史の範疇の中で各教授が自身の研究分野に関してノートを読み上げる授業が中心でした。勢い、大半の学生は、学業よりも部活、サークルやアルバイト、学外の活動に時間とエネルギーを割いていました。学内では経済学部はヒマ経と揶揄されたものです。

 そんな中で、私は、ドイツ語でDas Kapital を読もうとドイツ語の猛勉強をして、更にはレーニンの著作も読みたいと2年からロシア語もスタートした変わり種の学生でした。毎日中高時代の学生服でザック鞄を斜めがけして、自転車で通学する姿は結構目立っていたのではないでしょうか。ある夏の一日を日記風に書くとすると、自宅で朝食後、自転車で大学へ通学、授業を受けた後、空き時間は図書館で勉強、図書館では入館すると同時に司書の人が私の定席の頭上にある扇風機のスイッチを入れてくれるのが常でした。昼は生協で豚のしょうが焼き定食を食べ、食後はプールで一時間程度水泳。午後の講義の後は、時々、プレハブ部活室で囲碁をして帰宅。ある時期は、北浦和の碁会所でアルバイト対局をして、地元の経営者の人などにカツ丼をご馳走になったような記憶もあります。

 当時は世界的には経済学と言えばミクロ経済学、マクロ経済学、統計学を基本として、それに専門領域として例えば財政、金融、経済史、経済地理などを加えた学問領域でしたが、埼玉大学では、まだマルクス経済学を基本として、近代経済学を特殊な数理的な経済学或いは俗流経済学と位置づけていました。私自身も、高校時代に読んだ大塚史学に興味を持って経済学部に入学したことから自然にマルクス経済学を学んでいたわけです。しかし、それは既に社会では亜流であったと思います。多くの学生もそれには気が付いていて、近代経済学を教えるたった二人の先生には多くのゼミ生が集中していました。

 卒業に向けて、私はそのままマルクス経済学を大学院で勉強するか、或いは就職するかという選択に迫られました。そこで決め手になったのは、世の中の役に立つのはどちらかということでした。本を読み論評を書くのは好きでしたが、それは高等遊民のすることで、自分の趣味としては良いが、それで社会を良くできるのかということです。世の中の役に立つには、経済政策を実践している官庁に入って、自分の理想とする政策を実現していくべく努力すべきではないかと思ったのです。

 そこで、中央官庁の中で、リベラルで合理的な理屈が通用しそうな経済企画庁に入りました。しかし、それは幻想でした。企画庁は、中央官庁の中では新しい組織で、当時の大蔵省、通産省の植民地のような弱小組織で、合理的なあるべき政策を主張し実現していく実力が不足していたのです。当時、官庁の事務官の殆どは東京大学法学部の卒業生で、そうした学生から見れば権限も予算もない、かっこいいこと言うけど実力のない役所だった訳です。埼大生の私にはそんな霞が関の内情など全く分からず、迷い込んだ次第です。

 40年経って今振り返れば、この馬鹿な選択が結果的には正解だったかもしれません。当時霞が関の中枢の秩序は極めて堅固で、世間知らずの埼大生には刃が立たなかったでしょうが、新米官庁の、しかも辺境領域とも言える国際協力や地域活性化といった課題に挑戦することで、意外にその後の日本にとって重要で大きな仕事ができました。在タイ日本大使館でインドシナ開発の初代書記官を務めたり、タイ政府顧問としてアジア通貨危機後のタイの復興を支援したり、タイとインドシナに関する仕事は現地で通算6年半、通算すれば既に30年は関わってきています。タイとの縁はロンドン留学中の80年代後半にタイからの留学生と大学の寮で交流して始まったものです。当時から、私の世界観は、歴史的覇権国中国と新興覇権国アメリカに東西で挟まれる太平洋西岸に連なる島国日本がどうやって独立自尊を貫くかにありました。それに少しでも役立つのが自分の人生の課題であると考えていました。そうした日本にとって、ASEAN特にタイは歴史的な友好国で、共通の運命に翻弄される同舟の仲間です。91年初、カンボディア和平の実現の時期にタイに赴任したのも運命だったのでしょう。在タイ日本大使館では、通常は、経済企画庁出向者には任されることのないインドシナ復興開発担当という大変重要な任務を任されることになりました。未だ銃声の轟くカンボディア首都プノンペンで銃弾の痕跡顕な民宿に泊まって日本大使館の立ち上げを手伝ったりメコン川に掛かる二番目の大橋として、タイのムクダハンとラオスのサワナケットを繋ぐ橋の開発調査を行ったり、血沸き肉踊るようなダイナミックな経験をさせて頂きました。この間に、タイの経済界の方々とも友好関係を温め、例えばタイトヨタの初代現地職員ウタイアサワパパーご家族とは、現在に至るまで30年に亘って親しく家族づきあいをさせていただいています。在タイ期間中には、平成天皇の初の海外への公式訪問を受け入れる儀典担当もさせて頂きました。天皇陛下御一行の事務方としてタイの王宮に泊めていただいたことも良い思い出です。

 職場での担当を離れた現在でも、日タイビジネスフォーラムの副会長や日タイ協会評議員として、日タイの友好親善のために微力を尽くさせていただいており、タイ政府・大使館とは日常的な交流が続いています。埼玉大学経済学部はタイチュラロンコン大学と提携し、留学生の往来もありますが、これも何かの縁かもしれません。

 それ以外にも、霞が関での仕事では、中国のWTO加盟時の日中韓共同研究の幹事をしたり、尖閣後の日中関係改善のために中国の漢字博を東京で開催したり、地方大学を拠点とする産官学の講座「地域活性化システム論」を全国の大学で開講したり、地域活性学会の発足から10年間中心的に活動したり、人口減少時代の国土のビジョンを作り、所有者不明土地問題への制度対応の端緒を作ったり、いろいろな分野で世の中のお役に立てたと感じています。

 埼玉大学の後輩の皆さんには、是非、鷄頭牛尾で小さなことでも良いので、その分野では一流になって、世の中に役立つ人生を送ってほしいと切望しています。

お勧めの一冊

国富論 アダム・スミス
何と言っても市場経済の創生の基本を理論化しており、資本主義の歴史を理解するための第一歩として最適

家族づきあいをしていたタイのアサワパパー一家とのホームパーティー風景

中国河南省安陽市の漢字博物館訪問

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